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苦しみから解放されて…

苦しみから解放されて

苦しみから解放されて

Associated Press(AP)通信社がナパーム弾に焼かれた女の子の写真を公開してから40年。この写真は、戦争にさらされる人々の悲惨さを如実に表し、世界中に衝撃を与えた。その写真の女の子はいったい誰?戦争が終わってからはどのような人生を歩んできたか?40年経った今の状況は?

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この記事ではその写真の女性ーファン・ティー・キム・フックーについて読者のみなさんにご紹介したいと思います。

戦争の犠牲者

物語はベトナムのTAY NINH省、TRANG BANG県で、日付は今から40年前の1972年6月8日に始まった。その時、戦争がベトナム中に広がっている。一方、ベトナム休戦交渉がパリで行われていた。南部ではパリ協定に署名すれば、それぞれの政府がそれまでに捕獲した土地を維持するという噂があり、そのため南部のほとんどの人は戦争の激しい地域から逃れようとしていた。

1972年3月末には、ベトナム人民軍が南を攻撃し始めた。1972年4月、5つの省を徐々に占領し、KONTUM省、AN LOC省を包囲しました。TAY NINH省、TRANG BANG県では戦争が激化している状況である。

当時にまだ9歳のファン・ティー・キム・フックは、家族と一緒に町から避難ができなく、近くの寺院に隠れていた。双方が交戦し、ベトナム共和国側の歩兵が航空軍に支援を要請した結果、ナパーム弾が町に投下された。キム・フックと家族が激しくやけどされ、寺院の外に逃げた。

国際報道機関の従軍記者は町の外で状況を見ていた。AP通信社で働いていたフィン・コン・ウトが道路上に走っている被害者の写真をいくつか取り、その中でファン・ティー・キム・フックの映っている写真があった。

彼女は現場にいる記者たちに散水によって助けられ、その後AP社の車でウトさんにCu Chi病院に運ばれた。6月9日、Cu Chi病院からフックはサイゴンにある小児病院に移された。6月10日、外国人ジャーナリストたちの動きで、整形外科センターに移された。このセンターは、広島原爆の被害者の治療に従事したArthur Joseph Barsky博士によってサイゴンで設立された。

次の14カ月間の間、サンフランシスコから整形手術の専門家であるMark Gorney博士がサンゴんに来て、フックに17回手術を行った。その後、フックはTRANG BANG県に戻り、家族と一緒に過ごした。1975年4月までにジャーナリスト記者は何度もその家を訪問していた。

プロパガンダの被害者

AP通信社が公開してから、フックの写真がさまざまな政治の目的で宣伝されていた。記者たちは自分たちのキャリアのために使用した。北ベトナムの政府は、戦争が犯罪であることの証拠として使用した。また戦争反対の人々にとってあの写真はベトナム戦争が終了しねばならないことの呼びかける理由にもなる。1973年1月、パリ協定が結ばれ、2年後の1975年4月にベトナム戦争が終了した。

戦争が終わり、多くの混乱の中で、フックの家族は生き続けるためにもがいていた。

1975年にオランダ人であり、西ドイツのStern誌で働いていたPerry Kretz記者がフックの家を訪れた。終戦から長い年月がたっても、あの写真の女の子の姿を忘れられないKretz氏は彼女を助け、何かをしてあげたいと思っていた。彼はBornにあるベトナム政府の駐在事務所に問い合わせ、フックの運命を訪ねたのだった。

Kretz氏の要求を受け、ベトナム政府に発見されたフックは、再び、ベトナム戦争の悲惨さの生きた象徴として使用された。毎週、外国人記者たちの会見に出席し、地方政権の意図にそって質問に答えなければならなかった。

子供の時に戦争によってトラウマを負っているフックは、他人の痛みを和らげるのことで貢献したいと思い、医学を勉強する夢を持っていた。大学受験1回目は落ち、2回目でホーチミンにある医科大学に入学できた。

しかし、勉強の道でも肉体的、精神的苦痛が伴っていた。一方で生活の困難が積み重ね、他方では政権当局と協力しねばならない圧力に負け、時々、精神状態が崩れ、自殺しようと思ったことが多かった。

ホーチミン市で勉強している間、フックは再婚したばかりの姉と一緒に住んでいた。姉の無くなった夫の親友はTran Cao Vanプロテスタント教会の宣教師であった。住んでいた場所も教会に近くあり、よく親友の宣教師が訪問し、聖書を差し上げ、フックに神様について紹介していた。フックさんの苦しさを知っていた彼は教会に行き、神様に重荷をゆだねる祈りをするようにフックに助言をした。聖書を学んでしばらくの後、1982年のクリスマス礼拝でフックは主を受け入れ、洗礼を受ける決意をした。

それからの彼女の人生は変わっていた。1984年、ベトナム政府の回答を受けたKretz氏はベトナムに赴き、フックを西ドイツに連れて治療を受けさせるようにベトナム政府に要請した。この申請は西ドイツに短期滞在として承諾された。ドイツにいる間、フックはよくドイツのマスコミで取り上げられた。そしてドイツから帰り、ハノイに立ち寄ったとき、フックは当時のベトナム首相Pham Van Dong氏に面会した。Pham Van Dong首相はその後フックのメンターになり、1986年にキューバに留学させ、彼女を助けていた。

キューバのハバナに到着して、フックは薬学を勉強する予定だったが、途中で英語に切り替えた。1989年、キューバの滞在中にLos Angeles Times誌の助けでフックはフィン・コン・ウトさん(写真を撮った従軍記者)と再開した。

その後の帰省の時、フックは洗礼を受けた教会が国に没収され、担任牧師が刑務所に拘禁されていることを知った。彼女に聖書を教えた宣教師も3年間監禁され、解放されたばかりだった。この時に、フックは自分のメンターにイエス・キリストにある信仰を伝えた。

ベトナム政府に没収されたTran Cao Vanプロテスタント教会

ベトナム政府に没収されたTran Cao Vanプロテスタント教会

キューバ留学中に、フックはベトナム人留学生でハバナ大学で勉強しているBui Thanh Toanと出会い、しばらくの間お互いを知り合った結果1992年に結婚に至った。友人の勧めで、新婚旅行でモスクワに行った二人はキューバに帰る便の乗り換え地点であるカナダで移民申請し、カナダ政府に受け入れられた。

調停のメッセンジャー

Phan Thi Kim Phucさん、国連の親善大使

Phan Thi Kim Phucさん、国連の親善大使

カナダで静かに新しい生活を始めた若いカップルはQuarkerプロテスタント信徒に助けてもらいながら、やがて2人の子供を持つようになった。1995年、カナダ政府はフック家族に永住権を付与し、1997年にキム・フックは国民権を獲得し、正式にカナダ国民になった。

1995年はベトナム戦争の終戦から20年経った祝うべき年でもあった。ドキュメンタリー「Kim’s Story: The Road from Vietnam」がカナダで撮影し始めた時、あの写真の女の子は今カナダに住んでいることを知った記者たちはフックさんの家をインタビューに訪れた。

1996年、ベトナムで亡くなった米国軍人の慰霊祭がワシントンD.Cで開かれた。フックは招待され、スピーチで話した。我々は歴史を変えることが出来ないので、彼女は戦争について話をしたくないと言ったが、世界中で起こっているテロ、紛争、互いを殺し合うことがなくなるように、悲劇であった戦争の記憶を繰り返し伝えなければならないと言っている。神は信仰と希望を与えて、彼女を救ってくださったと言った。神は人を許し、和解するために彼女を選んでくださったのだと述べた。もしTRANG BANG県にナパーム弾を投げたパイロットに会う機会があれば、その人を許す心の準備が出来ていると彼女が言っている。

式典の最後に、ベトナム戦場で働いていた元米軍指揮官で、現在バージニア州にある小さな教会の牧師をしているJohn Plummer氏がフックに話しかけた。John氏はベトナム戦争の時に、米軍飛行場で働いていたし、一日当たり190回もの爆弾投下を指揮していたと話した。彼はベトナム共和軍のアメリカ顧問の要請を受け、1972年6月8日にTRANG BANG県にナパーム弾投下の許可を下した。その日から数日後、新聞で見たあの写真に衝撃とショックを受けた。ベトナム戦場から戻った後、精神がひどく衰弱し、主が彼を救って、牧師になる召命を与えてくださるまでは酒、薬物におぼれ、二回離婚していたと述べ、フックさんに許しを求めた。この告白を聞いたフックとJohn氏は一緒にひざまずいて神に祈った。両方とも、過去の苦しみから解放されて泣いていた。そして驚くべきことは、当時は2人とも主から離れていたが、今はキリストにあって兄弟であるということである。

John氏が爆弾投下の責任を自分に認めたことについていくつかの議論を引き起こします。第一に1972年夏の時点と、アメリカ政府のベトナミゼーション政策(ベトナムからの撤退戦略を指す)からほとんどアメリカ軍がベトナムから撤退していたので、ベトナム共和軍とともにアメリカ顧問がいるわけがないということである。第二にJohn氏の上司によるとJohn氏の当時の大尉の肩章からでも職務からでも爆弾投下の許可を下せる権限がないということである。しかし、他の意見では当時のアメリカ空軍の何人かはまだベトナム空軍と一緒に働いていたとされている。

米国ではNational Public Radio放送を通してフックは次のように話していた。

「許しは私を憎しみから解放したのです。今も体には傷跡が残って、ほとんど毎日は痛みに耐えなければならないのですが、心は平安です。ナパーム弾は非常に強力ですが、私の信仰、神から頂いた許しと愛がもっと強いのです。誰もが真実の愛、希望と許しと一緒に暮らすことを学べば戦争状態になることはありません」

ドキュメンタリー「Kim’s Story: The Road from Vietnam」を見た人の中で、UNESCOにおけるカナダ代表がいる。彼はフックが許しについて話したこととJohn氏との会話で感動を覚えた。1997年11月10日、フックは国連から親善大使になる招待を受けた。彼女は「和解のメッセージを広げ、お互いを理解し、攻撃と暴力の代わりに対話と交渉を使用し。。。」の責任をボランティアとして任命された。この新しい働きで、フックは多くの場所に行き、戦争被害者から大学生、ビジネスマン、国家リーダーまで様々な人と出会い、話する機会があった。

そしてその傍らに彼女は、ワシントンD.Cで米軍のベトナム戦没者慰霊碑を呼びかけ設立したRon Gibbs氏と一緒にキム財団を設立した。キム財団は、戦争に被害を受けている子供に助けの手を差し伸べている。

NZone放送局(New Zealand)がフックをインタビューしました。

おそらくフックははじめてのベトナム人として国連の親善大使を担っていると思います。この仕事を15年間続けてきたのだそうです。「平和を実現する人々は、幸いである。天の国はその人のものである(マタイによる福音書5:9)」。フックは国連の親善大使だけではなく、神様の子どもでもあり、この世界に平和を実現する神の大使でもあるのです。イエス・キリストを信じて30年間たった今、どこに行っても機会があれば人々に福音を伝えているのです。その中で国家リーダーの人も何人かいました。フックは話します。「爆弾の炎に体を焼かれましたが、医師の方々の腕に皮膚をつながれ、イエス・キリストの力に魂の傷を治していただきました」

フックの夫、決して神を信じないと決めていた共産主義の青年ーBUI THANH TOAN、今は神学校で神学を終え、牧師になりたいと言っています。

Bui Thanh Toan牧師とPhan Thi Kim Phuc

Bui Thanh Toan牧師とPhan Thi Kim Phuc

参考:Huong di Ministries, Thu vien tin lanh

編集:Chau Thanh, Thu vien tin lanh

日本語訳:Cong Quyen, Mitaka Glory Christ Church

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